研究

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チャイルド・セクシャル・アビューズとは何か?
目次

1 はじめに

2 チャイルド・アビューズ(児童虐待)一般について

3 セクシャル・アビューズ(性的虐待)としての一面

4 チャイルド・セクシャル・アビューズの定義

文献

チャイルド・セクシャル・アビューズとは何か?

村本邦子(女性ライフサイクル研究所

『女性ライフサイクル研究』第2号(1992)より

1 はじめに

 チャイルド・セクシャル・アビューズは、我が国では一般に「児童性的虐待」と訳され、社会福祉に関わる現場や医療、法律関係者のあいだでは、「親やそれに代わる保護者によって子どもに非偶発的に加えられる」性的虐待のことを指している。つまり、身体的虐待、養育の怠慢・拒否、心理的虐待と並ぶ「児童虐待」の一型である。しかしながら、上に挙げた専門家以外の人々のあいだでは、一般に通り魔のような異常者による性的逸脱行為を伴う犯罪が連想される傾向がある。近親姦が話題にされると「まさかそんなこと、よっぽど異常な家庭ではごく稀にあるのかもしれないけれど、普通の家庭ではあり得ないわ。性的虐待って、家庭内の問題じゃなく、関わりたくもないような変質者に不幸にして捕まってしまった時に起こる災難みたいなものじゃないの。」というのが、ごく普通の人の反応である。どちらにしても近親姦もしくは異常者の犯行という特殊な問題として理解されているために、この問題は一般の関心から外れてしまい、その限り、これは社会問題になり得ないし、その本質は見逃されることになる。そこでこの特集ではまず、チャイルド・セクシャル・アビューズの定義に戻り、家庭内での性的虐待という専門家の理解と、家庭外での変質者の犯行という一般の理解に二分割された問題が実はつながっており、この二分割のあいだに数知れないたくさんの性的虐待が闇に葬られ無視されているということ、これが特殊な領域の問題ではなく、もっと身近で普遍的な問題であり、一刻も早く社会問題として捉えられる必要があるということを論じていきたい。
 本章の論点はふたつある。まず第一は、チャイルド・アビューズ一般の問題、そしてその下位概念としてのチャイルド・セクシャル・アビューズの問題、第二にチャイルド・アビューズの一型に限定していては論じきれないチャイルド・セクシャル・アビューズのセクシャル・アビューズとしての一面についてである。
 なお、筆者はチャイルド・セクシャル・アビューズという片仮名を用いているが、これは、「児童性的虐待」という言葉からすでに連想される以上のような先入観を取り敢えず置き、まずはこの概念が(日本の文化の)外から入ってきたというところから新しく考え直して欲しいと思うからである。

2 チャイルド・アビューズ(児童虐待)一般について

(1) チャイルド・アビューズという概念の歴史

そもそも児童虐待という概念が注目されるようになったのは、1874年にアメリカで起きたメリー・エレン事件がきっかけだったとされている。ニューヨークに住んでいたメリーは継親に殴られ、飢え死にしそうになっているところを発見された。しかし、当時は虐待された子どもを保護する法律がなかった。そこで市民は動物虐待防止協会を説得し、彼女を広義の「動物」として、少なくとも犬や馬に与えられるのと同じ保護を受ける資格はあるとした。これをきっかけに児童虐待防止や保護のための団体がつくられることになった。この事件が社会問題として大きく取り上げられたということは、似たようなケースが表沙汰にならないまでも多く存在していたことを示すと同時に、虐待という概念を人々が受け入れられるだけの基盤が出来つつあったということを示している。
虐待という概念は人権という概念とワンセットである。人間の権利が人間の普遍的な権利として主張され、宣言されたフランス革命は、今から200年前のことであるが、この人権という概念の背後にはギリシャ時代からすでにテーマとなっていた平等という概念がある。アンティフォンは、「自然によれば、万人は平等である。野蛮人もギリシャ人も。なぜなら、誰もが口と鼻で呼吸し、手で喰うからである」と言った。カルビン派は宗教革命で「神の前には、主人も奴隷も、男性も女性もみな平等である」と説き、トマス・ペインは人権の根拠を「それは人間が人間であるという、その自覚の中にあるのだ」とした。したがって、人類の歴史が人権という概念を徐々に形づくっていったというよりは、むしろ人権という概念は早くからあって、「人」に含まれる人々が徐々に増えていったと言う方が適切であるが、子どもの人権について言われるようになるためには、「子ども」という概念ができるのを待たねばならなかった。
アリエスによれば、「子ども」が発見されたのは17世紀である。それ以前はあまりにも多くの子どもたちが死んだり、殺されたりしていたせいで、子どもは一種の匿名状態にあったというのだ。モリエールは「小さい者は数のうちに入らない」と言い、モンテーニュは「精神の作用も、それと認めうる身体の形も、子どもたちにはみられない」と言ったし、パスカルは「子どもは人間ではない」と言いきった。このように理解される子どもは「人」のうちに入らない。子どもの人権について考えられるようになったのは、やはり、ルソーの『エミール』からであろう。しかし、ルソーの念頭にあったのは男の子のみであった。アリエスも指摘するように、子どもの概念はまず少年のためのものとして覚醒され、他方少女たちはさらに長期にわたり伝統的な生活様式のうちにとどまり、遅れをとることになった。フランス革命が女性を多く動員しながら、結果的には女性の人権を置き忘れたように。
このように「子どもの人権」という考え方は、比較的新しいものであり、これを理解するためには、ある面で、一定程度の意識のレベルが必要であり、社会の成熟が不可欠なのである。我が国でもつい最近まで行われてきた間引きや人身売買、中国のてんそく、アフリカの方で現在も行われている女子割礼(男子の割礼と違い、女子の場合はクリトリス切除である。この風習は世界各地に見られ、フランスでも18世紀まで行われていたという)などについては、現在の我々から見れば虐待であっても、その社会では決して虐待とは捉えられない。我が国でも「子どもの権利条約」の批准が言われているが、いまだに批准していないことは、我が国の社会がこの一定程度の意識のレベルにまだ達していないということを示しているのである。
アメリカでは、このように人々の意識が徐々に高まると同時に、医学の進歩によって虐待児の外傷をX線で診断できるようになったことが大きな影響を与えた。初めて小児のX線撮影が行われたのは1906年であり、1946年にキャフィー(J. Caffey)が虐待された子の硬膜下出血と長骨のX線上の変化を報告した。池田由子によれば、1960年前後に児童虐待の第一次キャンペーンが展開され、被虐待児のレントゲン写真を示すテレビ番組が何回か放映され、小児病院の医師の談話もよく紙上に登場していたが、当時は専門家も一般の人も「まさかそんなことが!」というような反応だったという。このように、最初にチャイルド・アビューズを発見し問題視したのは、原因不明の外傷の治療という形で虐待児に関わった小児科医たちだった。この時点でチャイルド・アビューズは、ケムペ(C. Kempe)の提唱により「殴打された子症候群(battered child syndrome)という医学用語に代表されていた。
こうして虐待が特殊なケースではなく、大きな社会問題なのだと認識され、人々の意識が高まると、チャイルド・アビューズは決して目に見える外傷を残すものに限られないことが理解されるようになり、身体的虐待だけでなく性的虐待をも含むようになり(性的虐待が問題にされるようになったのも、初めは性器の外傷や妊娠という目に見える被害からだと推測されるが)、さらに心理的虐待、そして積極的に虐待するわけでなくても養育を差し控えるという形での消極的行為をも「保護の怠慢ないし拒否(ネグレクト)」として虐待と見なすようになった。これが我が国にも導入され、1973年厚生省による児童虐待に関する全国調査が行われることになるが、その時、虐待とは「暴行など身体的危害、長時間の絶食、拘禁など、生命に危険を及ぼすような行為がなされたと判断されたもの」と定義され、遺棄とは「いわゆる捨て子として受理したもの。病院、施設、駅構内に置いたまま、実父母等が行方不明になったもので、親族に置き去ったものを除く」とされた。つまり生死に関わるほどの身体的虐待とネグレクトに限定されたのである。すでに述べたように、虐待という概念を理解するためには、一定程度の意識のレベルが必要である。この時点で、我が国のレベルは虐待が発見され始めた頃のアメリカのレベルと等しい。

(2) これまでのチャイルド・アビューズ理解の問題点

 1974年にアメリカで交付された「児童虐待の予防と治療に関する法令(Child Abuse Prevention Act)」での定義は、「18歳以下の子どもに対し、その子の福祉に責任のある人間が、身体的傷害や精神的傷害を加えたり、性的暴行をしたり、保護を怠ったり、残酷な行為をして、子どもの健康や福祉を脅かし、あるいは損なうことをいう」だった。ところが、我が国で1983年に実施された児童虐待調査研究会の全国調査では、「親、または、親に代わる保護者により、非偶発的に(単なる事故ではない、故意を含む)、児童に加えられた、次の行為をいう。云々」と定義されたのである。ここに問題を見るかどうかは、「その子の福祉に責任のある人間」の部分の解釈の問題と言えるだろう。我が国では懲戒権という権利を保証することで親権者は一般人と異なる特別な地位が与えられている。また、虐待を知った人に通報義務はあってもこの義務を怠った時の罰則はない。つまり、我が国においては、「その子の福祉に責任のある人間」と「親、または、親に代わる保護者」とはほとんど同じものだと理解されており、そうであるがゆえに、法は家庭に入らずと言われる。池田由子も親の性的虐待(近親姦)が刑法上の罪に問われず、それがもっぱら道徳の範疇に納められていることを指摘しているが、果たしてこれは正しい解釈だろうか。筆者は、このように読み取るところに日本人のあり方が表現されているように思えてならない。特定の子どもに対して「親、または、親に代わる保護者」が一般人より思い責任を荷うのは当然であろう。ところで、見ず知らずの子どもが目の前で溺れかかっている時、その子を助けるために何もせずただ見ていたとすれば、その人に罪はないだろうか。それも道徳の範疇に納めるべきというのであれば、もはや法は不用だろう。筆者の言いたいことは、何の関わりもない子どもであっても、大人は子どもの福祉に責任があり、少なくとも目の前にいる、あるいは身近にいる子どもに対して、その責任を果たす義務があるのだということである。ところが日本人の性質として、よその子には遠慮して介入しないという傾向がある。まず、それを明確にした上で、筆者は通報義務に罰則が必要であると考える(ただし、アメリカのように誤報であった場合の免責規定も必要だろう)し、虐待を「親、または、親に代わる保護者」に規定する必要はないと考える。行きずりの子どもを殴ったら、それはチャイルド・アビューズであり、行きずりの子どもに性的暴行を加えたら、それもチャイルド・アビューズである。
 もちろん、「親、または、親に代わる保護者」のケースをその他のケースと区別して対処しなければならないことは言うまでもない。この場合、虐待という事態に加えて、子どもが育つ権利をも侵害するという二重の被害が含まれているからである。子どもは家庭で世話され愛情を注がれることによって身体的にも精神的にも成長する存在であり、その基本的要素が満たされないことは、致命的である。行きずりの虐待は家庭という癒しの場を持つが、家庭内の虐待はどこにも逃げ場を持たない。このように緊迫した問題として、家庭内のチャイルド・アビューズが真先に問題になったことは理解できるが、しかし、チャイルド・アビューズというからには、それを家庭内に規定するのでなく、家庭内の虐待に関してはまた特別のカテゴリーを設けて理解するのが適切であると提唱したい。この定義にこだわるのは、すでに述べたように、ことセクシャル・アビューズに関して言えば、加害者は「親、または、親に代わる保護者」によることもあるし、それ以外の場合も多いからである。ここで定義を明確にして統一しなければ、今後どれだけ念入りに調査が行われても笊の目であろう(アメリカでは、さきほど紹介した「児童虐待の予防と治療に関する法令」が規定されて、虐待の報告が5倍に増えたという)。
 なお、日本では一般にCAPAの定義が「18歳以下」と訳されているが、原語は“under the age of eighteen”であり、「18歳未満」の誤訳ではないかと思われる。「18歳以下」であろうと「18歳未満」であろうと基本的にかわりはないわけだが、今後外国のデータと比較調査する際に統一されている必要はあるだろう。今後「子どもの権利条約」に批准するものと期待するならば、「子ども」の定義として他の項目とも統一される方が良いのではないかと考えられる。

3 セクシャル・アビューズ(性的虐待)としての一面

 これまでのチャイルド・セクシャル・アビューズ理解の問題点は、それがこのようにチャイルド・アビューズの下位概念として「家庭内」に限定された点だったが、それに加えて、チャイルド・セクシャル・アビューズはチャイルド・アビューズであると同時にセクシャル・アビューズでもあるという点が見逃されてきた。セクシャル・アビューズという点からこの問題を語るならば、そこにはレイプやセクシャル・ハラスメントといった性暴力と共通するものがある。イタリアの「性暴力法」の原案では、第一条で「性暴力とは、女性の合意を得ない行為をいう」とされ、アメリカ、ウィスコンシン州の「性暴行法」では暴行とは相手の意思に反した行為だとされているとのことであるが、主として男が女をその物理的力、社会的力などを利用してほしいままにするということである。
 アビューズ(abuse)とは本来「力の誤用、権力の濫用」の意味であり、力関係で上にある者が下にある者に対してその権力を誤用したり乱用したりすることを示す。内藤和美(1991、p.43)は、それをふまえて、性的虐待は「構造的な力関係のもとでの、力をもつ者からもたない者への性的強制力の行使」と定義し直すことができるのではないかと示唆している。この場合、「構造的な」とは、個人の力では容易に変更できない一定のパターンとして社会に存在するということであり、男と女、大人と子ども、富裕な者と貧しい者など様々な組み合わせが考えられ、それは偶然そうであるという関係の中で行使される力にはない社会的後押しがあり、当たり前のこととして正当化される危険を孕んでいるという。たとえば、女よりも男の方が権力を持ちやすく、性行為に関して、男の方が攻撃的であるよう後押しがなされている社会である以上、男と女の性には構造的な力関係があると言える。
 このようにフェミニズムの視点からチャイルド・セクシャル・アビューズの問題を論ずるとすれば、チャイルド・セクシャル・アビューズの被害が軽視されてきた理由として、レイプが強姦罪として成立しにくいのと同じ社会的背景を問題にしなければならないだろう。一般に、見知らぬ男によって生命に危険を及ぼすほど著しい暴力とともにレイプされたケースを除けば、被害者の責任が問われるのがふつうである。なぜこのようなことになるのか、つまり、レイプが本人の意思に反して加えられる暴力でありながら、加害者の罪よりも被害者の責任が問われるという理不尽な結果になるのは、この社会に「強姦神話」が流布しているからだと言われている。弁護士である段林和江によれば、この「強姦神話」には、たとえば以下のようなものがある。

a. 強姦されるのは、被害者に責任(落ち度、軽率、挑発)があるからだ
b. 本当にイヤだったら、最後まで抵抗できるはずである
c. 顔見知りのあいだでは強姦にはならない、合意があったのではないか
d. 女性には強姦願望がある
e. 普通の男性は強姦など行わない、強姦は特殊な男性の反抗である
f. 性的欲求不満が強姦の原因である

 ひとつの強姦事件を例に挙げるならば、昭和53年広島で、「被告が知り合いの人妻に恋慕し、同女を詐言をもって人気のない場所へ誘い出し、恋慕の情を打ち明けたが、同女が帰らせて欲しい等と言い出したので、この機会を逃すと同女と性交することができずに終わるだろうから、この際何とかして同女と性交してしまおうという気になり、同女を口説きつつ、車内で、泣き出す同女を姦淫した」という事件があり、無罪となった。男性である裁判長に言わせると、「およそ男性が、座っている女性を仰向けに寝かせ、性交を終えるについては、男性が女性の肩に手をかけて引き寄せ、押し倒し、衣服を引きはがすような行動に出て、覆いかぶさるような姿勢となる等のある程度の有形力の行使は、合意による性交の場合でも伴うものであると思料されるところ」であるから、何ら特別な暴力が使われた証拠もなく有罪とは見なしがたいというのである。この裁判長がふだんどのような「合意による性交」を行っているのか想像したくもなるが、レイプであったか否かを決めるものは暴力が使われたかどうかとか、被害者が抵抗したかどうかなどと関わりなく、被害者の意志に反していたという一点である。
 子どもに対するセクシャル・アビューズも同様で、暴力が伴わない猥褻行為に社会は非常に甘い。また、子ども自身がa〜dの神話によって自分の落ち度を恥じ、咎められることを恐れて助けを求めることもできない。万が一、子どもが助けを求め事件が取り沙汰されたとしても、e fの理由で、ごくふつうの男性である加害者は「犯人」などではなく「ちょっとした気の迷い」もしくは「欲求不満」によって過ちを犯してしまった哀れな男として、むしろ世間の同情を買いさえする。
 チャイルド・セクシャル・アビューズを考える時、このようなセクシャル・アビューズとしての一面を見逃すならば、大きな過ちを犯すことになるだろう。つまり、チャイルド・アビューズは大人vs子ども、セクシャル・アビューズは男vs女という構造的社会背景を持っている。もちろん「構造的な」と言うからには、一般傾向について言っているのであり、必ずしもチャイルド・セクシャル・アビューズが大人によって子どもに加えられる、男によって女に加えられるというわけではない。後に述べるように、子ども同士で起こるチャイルド・セクシャル・アビューズ、大人の女から男の子に対して加えられるチャイルド・セクシャル・アビューズも問題にしていく必要がある。この場合でもアビューズの背景になっている「力関係」に眼を向けることは非常に有効である。子ども同士では、発達の違い、知能や腕力の違いによる力関係があるし、女性による加害の場合、女性が大人であることに加え、母親であったり教師であったりと、子どもに対して力を持っている場合がほとんどである。しかしながら、これらのケースは非常に少なく、おおまかには大人vs子ども、男vs女という構造的力関係で考えてよいと考えられる。

4 チャイルド・セクシャル・アビューズの定義

 それでは、アメリカではチャイルド・セクシャル・アビューズの定義はどのように捉えられているのだろうか。アメリカであってもその定義と分類は、この語を用いている者がどの専門分野に属するかによって違ってくる(しかしながら、我が国のようにチャイルド・セクシャル・アビューズを家庭内に限定するという根拠はどの専門分野にも見当たらない。あるとすれば、一昔前、つまりチャイルド・セクシャル・アビューズの概念が出来始めた頃の定義である)。法律関係、医者、精神衛生関係者たちが、それぞれこの問題にどのような関わり方をするかによって、独自の定義を持つからである。たとえば、法律関係者ならば、強姦、和姦、ソドミー、強制猥褻、オーラル・セックス、物を使った性器もしくは肛門への挿入、性的搾取などというふうに分類し、どう起訴するかが問題となるし、医療関係者であれば、多くのチャイルド・セクシャル・アビューズが外傷を残さないため、子どもを支持してチャイルド・セクシャル・アビューズを証明するための検査が必要である。チャイルド・セクシャル・アビューズの身体的症状として、あざ、擦り傷、歯形、SDT、下着の血痕、性器周辺のあざや腫れ、肛門、性器、胃腸、膀胱周辺の痛み、了解不可能な性器の傷、陰唇への傷などを子どもの証言にあわせて順にチェックすることになる。
 ここでは、精神衛生に関わる専門家、しかも犠牲者中心アプローチを取る立場の専門家による定義を紹介しよう。この犠牲者中心アプローチというのは、チャイルド・セクシャル・アビューズを扱う上での基本的ものの考え(philosophy)であり、専門家がチャイルド・セクシャル・アビューズを扱うさい、常に、犠牲者の利益を心にかけ、それを追求しなければならないとするものである。つまり、その子どもを今後チャイルド・セクシャル・アビューズから守り、感情を解き放す助けになることを問題にし、その他の利益は後回しにしなければならない。さて、チャイルド・セクシャル・アビューズとは、異なった発達段階にある者同士の間に起こり、より発達の進んだ方が性的満足を覚えるあらゆる行為のことである。これは加害者も被害者もひとりであるということを前提にした説明であるが、当然、加害者も被害者も二人以上のことがある。通常は大人対子どもで起こるが、子ども同士で起こることもある。加害者が思春期の子どもで、被害者が潜伏期の子どもであることもあれば、同年令で、片方が発達遅滞ということもある。この定義に挑戦して、セクシャル・アビューズは性的行為なのではなく、その背後に別の動機が隠れているとする専門家もいる。性的満足が唯一の動力でないことは確かだが、それがひとつの役割を果たしていることもまた事実であり、その意味で他の行為とは区別できる。もちろん、被害者の方が何らかの性的興奮、快感を経験したとしても、セクシャル・アビューズであることに変わりはない。加害者と被害者が身体的に接触する場合もあるが、身体接触がない場合もある。細かい分類は次のとおり。

(1) 身体接触のないセクシャル・アビューズ

a. 性的語りかけ…「君とやりたいなぁ」などと子どもに言うだけでもセクシャル・アビューズである。
b. 露出…加害者が自分の性的な部分(胸、ペニス、バギナ、肛門)を露出したり、被害者の目前でマスターベーションをするなど。
c. のぞき…被害者が着替えるのをこっそり、あるいはじろじろ観察するなどして性的満足を得る。おむつ替えや子どもが風呂に入っているのを見るなど、外目にはそれとわからない場合もある。

(2) 性的部分を触るセクシャル・アビューズ

性的な部分を触ること。胸、バギナ、ペニス、お尻、肛門、会陰周辺部。加害者が被害者を愛撫する、加害者が被害者に愛撫させる、相互に接触するよう強要する場合がある。衣服の上からの場合もあれば、直接の場合もある。

(3) 口と性器でのセックス

子どもの性器への、もしくは子どもに強制するクンニリングス、フェラチオ、アナリングス。

(4) 大腿骨のあいだでの性交

子どものももとももの間にペニスを押し付けてする性交のことで挿入はない。子どもが小さすぎて挿入ができない場合、子どもを処女のままにしておきたい場合に使われたり、大きい子どもであれば、避妊を避けるために使われるやり方である。

(5) 性器の貫通

a. 指での貫通…バギナや肛門に指を入れるものであるが、口に指を入れるというのがセクシャル・アビューズであることもある。子どもの指を加害者の性器に入れさせるというものもある。これは、性器や肛門での性交に発展する場合がある。
b. 物での貫通…これはケースとしては非常に少ないが、道具を被害者の穴(バギナ、肛門、口)に入れるもの。
c. 性器での性交…ペニスをバギナに入れるもの。被害者のサイズと合わないので加害者の性器は部分的に入れられる。約半数のケースが射精にまでいたる。ほとんどの場合、加害者が男、被害者が女であるが、その逆の可能性もある。その場合、被害者は比較的年長で思春期のことが多い。
d. 肛門での性交…加害者のペニスを被害者の肛門に入れる。被害者が男のことが多いが、女のこともある。後者の場合、加害者は妊娠を避けようとしていることもあるし、それ以外のセクシャル・アビューズと併用してこの方法を用いることもあれば、加害者が被害者に非常に腹をたてていることもある。

(6) 性的搾取

加害者が直接子どもと性的接触を持って満足を得るのではなく、加害者は子どもを性的に使って金儲けをするという場合が多い。
a. 子どものポルノグラフィー…子どもの写真を撮ったり、映画やビデオを撮る。これを個人的に見て満足を得る場合もあるが、ポルノ製作者と取り引きして売ることもある。子どもとの行為にのめりこむのではなく、子どもを物と見るという点でこれまでのセクシャル・アビューズとは異なる。子どもに誘惑的なポーズをさせることもあるが、入浴などごく普通の行為を撮り、観察者を性的に興奮させることもある。家出した子どもが営利目的の大人に利用されることもあるし、両親が子どもをポルノグラフィーの対象にすることもある。
b. 強制的売春…被害者は男の子も女の子もあり得るが、加害者はほとんど男である。強制的売春の被害者となるのは家出した子どもが多い。家庭が自分を保護してくれないと考えて家出した子どもが生計を立てるために売春をやるはめになる。ふつう子どもが自発的にこの商売を始めるのではなく、斡旋して金儲けする大人がいる。

(7) 他のアビューズと一緒になったセクシャル・アビューズ

以上に挙げたようなものがセクシャル・アビューズであるが、これらは非常に多くのバリエーションや組み合わせがある。排尿や排便が何らかの役割を果たしたり、薬物やアルコールが与えられることもある。チャイルド・セクシャル・アビューズを別の子どもに見せたり、加わるように強制させるケースもある。
 これらをそれぞれ、家庭内のセクシャル・アビューズと家庭外のセクシャル・アビューズに区別する。
 細かな補足をするとすれば、被害者の年齢制限にはさまざまなバリエーションがあり、15歳までとするもの、16歳までとするもの、17歳までとするものがある。また加害者と被害者の年齢差に制限をつける立場もある。5歳以上の差がある場合のみピックアップする研究と、10歳以上の差を設けるもの、加害者は15歳、あるいは16歳以上と限定するものもある。しかし、ここで紹介した定義のように、子ども同士のセクシャル・アビューズでは、単純に暦年齢だけでは力関係を説明できないわけだから(精神年齢や体の大きさなども当然関係してくるだろう)、年齢制限を設ける必要はないというのが筆者の考えである。フィンケルホーは、同年齢の遊び仲間同士による虐待についても問題提起しており、とくに思春期の女の子が同年齢の男の子から性的な攻撃性を向けられ、それまでの経験からそれもチャイルド・セクシャル・アビューズだと感じることがあるという。日本の集団による子ども同士のいじめの問題も同様であるが、同年齢であろうと、そこに力の格差があり、被害者がアビューズと感じているならそれはやはりアビューズであろう。
 その他、セクシャル・アビューズを受けた子どもたちを救済するための施設スチュアート・ハウス(カリフォルニア)でボランティアを経験した弁護士の松尾園子は、セクシャル・アビューズを、1.incest(近親姦)2.child molestation(子どもに対する性的いたずら、不特定多数の被害者が発生することが普通)3.ritual abuse(ある種の宗教的信念にもとづくもの、いわゆる保育園などで起きた集団虐待事件)に分類しているが、とくに3つめのリチュアル・アビューズは我が国でも問題にしていかなければならないだろう。

文献

P.アリエス(1991)杉山光信・杉山恵美子訳『<子ども>の誕生』みすず書房。

段林和江(1991)ウーマンズ・スクール法律講座、講義ノートより。

J.エニュー(1991)『狙われる子どもの性』戎能民江他訳、啓文社。

D.Finkelhor(1988)Child Sexual Abuse, Sage Publication

池田由子(1987)『児童虐待』中公新書。

池田由子(1991)『汝、我が子を犯すなかれ』弘文堂。

金城清子(1992)『法女性学』p.7〜23、日本評論社。

近畿弁護士会連合会少年問題対策委員会(1992)『子どもの権利条約と児童虐待』

第20回近畿弁護士連合会大会シンポジウム第4分科会。

内藤和美他(1991)「こどもへの性的虐待に関する調査研究」 昭和女子大学女性文化研究所紀要8。